{{category 文献紹介}} !!『記憶/物語』岡真理、岩波書店(「思考のフロンティア」シリーズ) (07/11/28) <出来事>やその暴力的な記憶について、それが語られるとき体制にいかに取り込まれやすい(この本で想定されているのは国家と国民、ナショナリズムである)か。では、<出来事>やその記憶に対してどう対するべきか。これが本書のテーマである。 暴力的な出来事は、記憶となってもその暴力性を失うことはない。それは、なかなか言葉にならない。いつまでも、いまの生活に、暴力的に、よみがえってくる。 「物語り」としてそれを語ることは、それを例えば人間性や現在を支える体験として正当化して、体制のなかにすっぽり収まるよう無力化し、暴力性をいわば「なかったこと」にしてしまいたい、という欲求の強い支配を免れない。端的に言うなら、物語化とは概して美化であり正当化であり、<出来事>の実在性を落とすための虚構化である。 <出来事>の当事者にとっても、それを受け止めようとする者にとっても、物語はある種のカタルシスであろう。だが、それは<出来事>に対する誠実な態度だろうか? その暴力性は体制のなかで無化されて決して受け止められることなく、体制による暴力の再生産-正当化が繰り返されるのではないのか? だいたいこんな議論である。 確かに、言語とはナショナリズムであろうがなかろうが、体制的・抑圧的なものである。そう考えるなら、およそこの世に反体制などあり得ず、ただ、岡の指摘するように、語りを免れることのできた「間」だけが、言語と思考の光の当たらないところに、暴力的に、ないし恩寵的に、存在がほのめかされるのかもしれない。 では、なぜ語るのか? 語れば語るほどに、真実から離れていくというのに。 それは、アーレントが言うように、ひとは、ひとびとの織り成す言葉の空間の中に「存在したい」と思う存在だからなのかもしれない。