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『人間回復の経済学』と『リバタリアン宣言』(07/9/3)

[文献紹介]

 『人間回復の経済学』(神野直彦、岩波新書)と『リバタリアン宣言』(蔵研也、朝日新書) (07/9/3)


自由か平等か。競争か協同か。個人かコミュニティか。
このような問いは、現代社会での自分の政治的立場を考えさせる。「ガバメント」と呼ばれる大きな政府を批判して、小さな政府による社会作りを構想するとき、いろいろなミックスはあれど、大きく2つの立場がある。コミュニティの協同か個人の自由か。いまの世の中、レポートにおいてだけでなく、実際にどちらかの立場を選ばなければならないことは(本当は)多い。

上に挙げた2冊は、読み比べることで双方の基本的な立場をあからさまな形で手軽に知ることができる。深い検討や実証作業のないパンフレットだと言える。
財政学を専門とする神野は、「協同」を知識集約型産業時代の人間らしい生き方であると考え、教育を中心とする社会システムの充実による市民参加型の社会作りというビジョンを示す。ところどころで広い学識をさらりと披露してくれるので、勉強になった気持ちにさせてくれる。他方、「私はリバタリアンです。」と宣言する蔵は、人間は本質的に利己的な存在であるとして、それをごまかさないで個々人の利己的活動をベースとした自由な社会を構想する。ところどころで自分の素朴な体験や感覚をベースにするので、ふーん、こういうスタイルなんだなといういみでの親しみが持てる。

両著者とも自律な活動力と判断力のある市民をモデルとして社会を構想しているところが共通点だ。もしも社会がそんな覇気ある市民たちばかりで構成されていたら、どちらのモデルでもうまくいきそうな気がした。
だが閉じた人間社会では、いつしか覇気は消え、疑心暗鬼・相互依存の足の引っ張り合いで、競争も協同も必ず腐敗するだろう。著者たちは、どちらの社会モデルにも潜む人間本性に関わるワナに目を塞いでいる。私としては、そこを問いたい。(ヨシダ)